2019/05/08

間違いだらけのコンプライアンス経営 蒲俊郎著

コンプライアンスの本は山ほど出ていて、それぞれに良書がある。
弁護士である蒲氏が著されたこの「間違いだらけのコンプライアンス経営」は、我が意を得たりの表現がいくつもあるので書いておく。なお、自分の考えも含めて書くので、蒲氏の文章と違う部分があることに留意のこと。

コンプライアンスを、イコール法律遵守と誤解している人が多い。大企業経営者であっても、その例に漏れない。またコンプライアンスが重要だと本気で思っている経営者もまだ少数である。何故か。コンプライアンスでは儲からない、そう考える人が多いことと、法律的な文章が苦手であくびがでそうな人が多いのだろう。

私の概念では、というより京セラ創業者の稲盛和夫氏の表現だが、「人間として善と思う事を行い、人間として善としないことは行うべきでない。」に集約される。
数学の集合を使って説明すると、人間として善なり、という大きな集合体の中に法律という小さな集合体がある。だから法律的に問題ないから良いのだ、という判断は間違っていると言って差し支えない。

文中にジョンソンアンドジョンソンの新氏の話が引用されているが、同氏が本社のCEOと最初に合った時に経営者として重要なことは何か聞いたところ、CEOのジェームズ・パーク氏はこう答えたという。
「平均以上の知性と、極めて高い倫理観」
成績が良いよりも、高度な倫理性を持っていなければ経営はできない、という事である。
何故そう思うのか、私の解釈は、会社の存続においてもっとも大切なものだから、である。つまり、人に後ろ指をさされない、まっとうな会社であり続けることは、会社の永続性に極めて高い相関性がある、ということだと考える。

私が以前勤務していたドイツの化学・医薬メーカーには6つのビジョンがあり、それを社員が共有することこそに、一緒に働く意味があるとしていた。その一つにIntegrityがあった。このIntegrityは、蒲氏によると欧米では大きな潮流になっているそうである。
これは誠実、高潔、真摯などを表す言葉であるが、つまり紳士たれということで、上記の倫理性、あるいは稲盛氏の人間として善たれ、につながる。

もう一つの視点として蒲氏が挙げて興味を持つのが古くから近江商人に伝わる「三方良し」の考え方である。「売り手よし」「買い手よし」「世間よし」の三つが備わり、良い商売が長く続けられるという心得だそうである。WIN-WINだけでなく、WIN-WIN-WINである。

この件で思い出すのが、以前勤務していたある大手メーカーの海外支店で、若手のアドミニストレーターが昼食時にネットでポルノっぽい画像を見ていたのだが、その付近の座席の女性が非常に不快な思いをし、上司に告げて戒告を受けた件である。それ以前でもe-learning等で何度も教育を受けてきたが、例えばセクハラ、パワハラは、加害者側にそのつもりが無くても、被害者側がそれを不快と思えば成立する。
ここまで極端に分かり易い例えでなくとも、茶髪の営業社員だとどうだろうか。美意識の観点で本人は良かれと思っている、会社としても髪の色まではルールに規定していない。問題はステークホルダーはどう考えるかである。客は、社員は、どう思うのか。

世の中には新しい技術やメディアが登場して、昨今はバイトテロと呼ばれるような、大手レストランチェーンのバイトが厨房で肉を床にべたりと擦って調理をする。それをそのまま客に出すなどの例があった。これをYoutubeに上げる神経がすでに私には理解不能なのだが。
もちろんこれは法的に規制はできる可能性がある。ただし、客がお腹を壊して、その肉についたばい菌との因果関係を証明する必要がある。勿論コンプライアンスルールにはそんなことまで想定して「やってはいけない」と書かれていることはまずない。ではどうするのか。

Youtubeに上げて、世間に対してレストランチェーンのブランド価値を下げた、というのがコンプライアンス上の指摘としてできるだろう。ただ、それ以前に「人間として善なのか」、あるいは蒲氏が例とする「三方よし」の精神なのか、を考えれば良い悪いは明らかである。

二つ、最後に付け加える。
蒲氏は、「魚は頭から腐る」という表現を引用している。経営者の倫理観が最も重要だという事である。大きな会社になればなるほど、問題は現場で起きる、上層部に報告されたときはかなり時間がたっており、いまさら問題になるからとして隠蔽する、それが外部告発されて社会的な問題に発展するのが典型的なパターンである。
経営者は、不断の努力により倫理観を会社全体に沁みとおらせると共に、何か起きた場合にそれを適切に、公明正大に処理する勇気をもっている必要がある。
もう一つは、内部通報制度の適正化である。一応内部通報者の利益を守る法律ができているが、実際のところはあまり成果を上げていない。やはり社内で白眼視され、会社に居づらくなるのである。米国などでは内部通報者には奨励金が出されるなどの例が出てきており、いろいろな方法が今後も出てくると思うが、繰り返しになるが基本的には経営者が先頭に立ってコンプライアンスの重要性を企業文化にしていき、少しでも早く間違っているものが正せるようにすることが肝であろう。

蛇足かも知れぬが、社員、同僚を人として常に尊敬して接しているかどうかが大切である。
相手のことを思いやりながらであれば、少し強い指導であっても、伝わる。
何故ならば人間というのは凄いもので、相手の0.1ミリにも満たない表情の変化から、嘘をついているのか、自分を思って言ってくれているのかをかなりの確度で読み取れるものである。パワハラなのか、熱血指導なのか、グレーな部分はどうしても残っていくが、最後は人間として善と信じ、人を人として尊敬する行動がとれているかどうか、それを常に自分に問いかけないといけないのである。

2019/05/06

白熱教室の対話術 堀公俊著

堀先生は、私が日本最大手の家電メーカーに勤務していたときに、 ファシリテーション研修を受けた講師として長く存じ上げていた。先生はカメラメーカーM社の経営戦略のスタッフでいらして、私が勤務していた電機メーカーが同社からある事業を譲渡してもらったときに直接関与されていたようである。
以前、私のブログでも取り上げさせてもらったファシリテーション、あるいはワークショップなど、さまざまな技法について深い知識と実践的な経験をお持ちである。そこで学んだことを実践でも使わせていただき、いまの自分のキャリアに生かしてこれた。
そして、つい先日、当社にお招きして二回に亘って、社員向けにファシリテーション・トレーニングを行っていただいた。

前置きが長くなったが、今回取り上げる本「白熱教室の対話術」は既に絶版になっているそうなのだが、A社のサイトでみると在庫一冊になっていたのでゲットした。
マイケル・サンダルの名前、あるいは白熱教室(これはNHKがつけた造語だろう)については記憶されている方が多いと思う。

  • 生き残るために瀕死の少年を殺して食べることは許されるのか?
  • イチローやビルゲイツの年収は高すぎるか?
など、身近であり、その場に居合わせることがイメージしやすく、かつ大きなジレンマを抱えた課題を聴講者に投げかけます。それに皆が共鳴するように、自分ならどうすべきかを考え始め、議論をし、部分的にマイケル・サンダルがまとめながら、講義を進めていきく。
私はこの番組が好きで何度か見ていたのだが、この講義の進め方にファシリテーション手法を感じることが多々あった。そこで先日堀先生に「あれはファシリテーションではないですか?」と聞いてみるとまさにその通りで、実際に堀先生自身があの講義を解説した本を書いたと言われるので手に取ったのがこの本である。

私事ながら、早稲田大学ビジネススクールに呼ばれて講師をした際に、海外留学生、社会人生徒それぞれに対して私の経験したビジネスケースを元にワークショップ形式の講義をしたことがあるのだが、見よう見まねで白熱教室もどきをやってみると、これが受けた。

先生の解説を読むと、その理由が良くわかる。
全体として起承転結にストーリーが組まれて、聴衆を引き付けやすい構成になっていること。一方的な講義をインストラクターとすると、議論を促進し、意見を引き出し、結論に至るまでのサポートを行うのがファシリテーションである。マイケル・サンダルはこのファシリテーションを使いつつ、要所要所でインストラクターとなる。冒頭に出したような、身近でイメージしやすく、考えさせられるテーマを準備すると同時に、的外れな議論でもその意見を尊重し、実際にそれが正しい方向へ舵を切り戻すための大事な意見にしてしまう。参加意識を高めるため、発言者の名前を聞き、最後に拍手を求めるなど、大勢の聴衆を本人に意識されること無く上手にコントロールしている。

たゆまぬ努力と天性のお陰でもあろうが、人にものを教えるだけでなく、大きな議論をまとめる上でも非常に参考になる講義であるが、それが堀先生によって深く分析されて手法を判りやすく整理されている。
絶版ということで残念であるが、まだネット上で売っているところもあり、最悪は中古でも読んで見る価値がある一冊である。

ビジネス・ディベート 茂木秀昭著

ビジネス・ディベート」著者の茂木先生には私が代表を務める企業に研修に来ていただいたことがある。
この本を読んで、大変判りやすい入門編になっていることと、先生の主張に激しく共感したからでもある。
もともとイギリスの大学などではディベートによる討論会が多く、
授業でもあり、ゲームという試合でもある。まだイギリス議会での党首討論で「Mr. Speaker, xx」から始まるフレーズを聞いたことのある人も多いだろう。少なくとも欧米、さらに近年では中国などでもディベートを教育に早くから取り入れており、日本でも近々授業に取り入れられると聞いている。日本にとってとても良いことである。

ディベートとは論理的な思考力やコミュニケーション力を高め、ビジネスに生かすスキルの一つと言える。日本ではディベートを「相手を言い負かすための道具」という誤解があるが、本来はある命題をめぐり、議論を建設的に発展させるための手法だ。
特に日本では、和の精神を尊ぶよき文化があるが、どうもディベートではこれが負に出てしまうようで、論点がずれて感情的になってしまうことが多い。
討論するべき議題を自分自身の問題と切り離せず、自分を攻撃されてしまうと感じてしまうのだろう。

しっかりとディベートを経験すると、社会において、プレゼン、企画書作成、会議、交渉などのシーンで利用できる。本書はその準備、ルール、手法をわかりやすく開設している。

私自身の経験を二つ。

  • ドイツ系企業で働いていたときに2度に亘ってアジアパシフィック地域の社員が集まって研修を受けたことがある。これが面白かった。一応英語は得意と少なくとも自分では思っているので外資系にいるのだが、インド、パキスタンをはじめ、アジア諸国の人たちは自己主張が強烈に激しい。意見を言い始めると講師が止めるまで止まらない。私の意見を言いたくても、さすがに相手の発言を遮ってまで話すのは気が引けるので、無口になってしまった。(日本人だなと自分でも思う)
    そのときに痛感したのが、一応「英語は使えます」レベルの私でも入っていくことの難しさを体験する中で、一般の日本人はこの中に入ってリーダシップを発揮できる人はどのくらい居るのだろうという素朴な疑問と危機感だった。
    彼らの議論に割り込み、与えられる時間は非常に短く、その中で、簡潔に論理的に自分の意見を述べ、議論に方向性を与えることができるようにならないと、日本人はなかなか世界の中で活躍できないのではないだろうか、そう強く思った。
  • この著作からは離れるが社会人ESSが主催した日本人だけの英語ディベートに参加した際に説明を受けたのは、AREAという言葉だった。これが非常に覚えやすい。
    Assert(主張)、Reason(理由)、Example(例)、Assert(主張)
    これは一分間スピーチにも、いろいろな場面で共通しているロジック構築で、私もA4の紙に印刷して、自分のオフィスの壁に貼り付けてある。
    まず、自分の意見を述べる(Assertは断言するというニュアンスで、切れ味するどく簡潔に判りやすく主張するということ)。
    次に、何故その主張になるかの理由を述べる。ここも大事で、論理的(誰にでもわかりやすい)でなければならない。さらにその理由をサポートするために例を挙げる。
    これもその例が本当に理由を肉付けするために妥当かどうか確認をしておく。
    そして最後に再度主張を繰り返す。ダメ押しである。
先生の著作は何冊かあるが、日本人は社会人になっても週に一度、それが無理なら月に一度でもディベートすると良い。
蛇足だが私の専属のディベート先生は妻である。30年以上、負け続けており、圧勝できたことはいまだ一度もない。
いつか気持ちよく勝ちたいものだ。
「繰り返すがディベートは勝ち負けを競うものではない」


2019/05/05

人工知能は人間を超えるか~ディープラーニングの先にあるもの~ 松尾豊著

東大の松尾教授は日本におけるAI研究の第一人者とされている。
しばらく前に教授の書かれたこの「人工知能は人間を超えるか~ディープラーニングの先にあるもの~」を読んだので覚えとして記しておく。
ちなみにこの本は2015年3月初版である。それから既に3年経っており(いまこれを書いているのは2019年5月である)、この間中国が国家統制、軍事利用の目的か、大変な資金と試験運用をしているので、状況は既に変わりつつあるかも知れない。

ここではまずはAIでいま大きな革新がお起きていること、そして人々の関心であるシンギュラリティ(AIは人の知能を超えて勝手に動き始めるか)は起こるのかについて簡単に松尾氏の考えを記す。

まず人工知能の定義。世の中にはAI搭載などと謳ったサービスや製品があふれ始めているが、人工知能を「人間のように考えるコンピューター」と定義した場合、いま巷で言われているAIは人工知能ではない。(少なくとも2015年時点では)
ゆえに、いまAI搭載と言っている製品は悪い言い方をすると学問的には「ウソ」。商業的には「アリ」なのかも知れないが、人間の知性のごく一部を真似て動くようにしたプログラムでしかない。

ではコンピューターで真の人工知能を持たせることは可能かどうか・・という問いに対してはYES。なぜなら人間の脳の働きはすべて電気回路に置き換えることができ、すべての私達の行動、思考、感情は脳内の神経細胞を伝わる電気信号から成り立っているからである。
では、だったらいますぐ人工知能を作れるのか・・に対してはNO。なぜなら人間の脳は実に深遠であり、いまだに脳の機能や動きは解明できていない。少しずつ判ることは出てきているが、殆どが判らないし、なぜ脳がそういう働きをするかが判っていない。例えば嬉しいときに、脳にはセロトニンという物質が分泌されるのは良く知られている。だが、なぜセロトニンが出るのかは判らない。

いまなぜAIが騒がれているかには、学会における二つの大きなブレークスルーがあったからに他ならない。一つはインターネットを資料してグーグルをはじめ多くの企業・国家がビッグデータを蓄えたことで、「機械学習」が急速に発展していること。
もう一つはディープラーニングといわれる「特徴表現学習」が発見され急激に拡大していること。

一方で世の中を騒がせているのは、チェス、囲碁、将棋などでコンピューターが人間に勝ったという、ある種、衝撃的な事件が起きたことから、コンピューターが人間を超えた、シンギュラリティが近いという誤解を生んでいることを指摘している。
コンピューターは生まれた時点で実は人間を超えている。電卓の例が判りやすいが、どんなに暗算に優れた天才でも電卓には敵わない。それは誰でも知っていることで驚くことではない。IBMのディープブルー(チェス王者に勝利)、ワトソン(クイズ番組で優勝)はすばらしい技術の成果と言えても、他にいろいろなことを思考し、創造的な行動をする人間を超えそうだとはとても思えない。

これからの進歩について。ディープラーニングはいま、写真などを読み込ませ、その特徴からそれが誰か、何かを推定するところまで進んでいる。(中国の街中においた監視カメラによって誰が歩いているかを特定しているのはこれ)
人工知能が発達すると人間と同じような概念、思考、自我や欲望を持つことはないと考えられる。何故なら、入力するセンサーが違うことが一つ。人間の目、鼻、耳、など五感は同じものを創れない限り、コンピュータに入力するデータそのものが違うということになる。ゆえにアウトプットも人間が考えているものと違ってくる。
もう一つは本能である。人間には生存本能があり、それをベースにして、快、不快を判断し、美しい、怖いなどの感情が表れる。それがコンピューターになった場合、本能を持つのは無理である。

人工知能が人間を超えて征服するというSF映画的なことが起こるかどうか。
答えはNO。少なくとも現時点では夢物語である。いまディープラーニングで起きていることは、「世界の特徴量をみつけ、特徴表現を学習する」ことであり、このこと自体はコンピューターの進化の中では大きなブレークスルーである。しかしこのことと、自分で意思を持ち、自分自身を設計しなおすなどということとは天と地ほどの差がある。
その理由は人間=知能+生命だから。知能は人間に近い、あるいは一部においては追い越すことがあっても、生命を作り出すことは人間自体、全く出来ない領域である。

最後におまけとして松尾教授が挙げている10-20年後にコンピューターに取って代わられる職業のベスト3と、残っている職業のベスト3を転記してこの稿を閉じる。なお本では25の職業を挙げている。

小、中、高校生の今後のキャリアプランの参考にされたい。

無くなっているかも知れない職業ベスト3
1. 電話販売員(テレホンマーケティング)
2. 不動産登記の審査・調査
3. 手縫いの仕立て屋

残っているであろう職業ベスト3
1. レクリエーション療法士
2. 整備・整理・修理の現場管理
3. 危機管理責任者

順位は低いが、例えば税理士のような特別な権利を持つ資格でも、単なる税務代行だけだと、なくなっているかも知れない職業にランクされている。こういう私も、多少簿記の知識があるとはいえ、クラウドサービスを使って確定申告をしている。私のような大した所得が無くてシンプルな申告の場合、率直に言うと税理士がパソコンで処理してくれるより早くて正確であろう。だから、税理士・公認会計士などは血の通った、コンピューターには出来ないサービスを提供しないと生き抜いていくのが難しい。逆に言えばそこにチャンスがあるのだろう。
蛇足だが、将来の自分の目指す道を模索している諸君に参考になれば。

日本は経済から再起動する フォーラム21 梅下村塾31期生

仕事上お付き合いされた方がこのフォーラム21に会社派遣で参加されており、この「日本は経済から再起動する」を読ませていただいた。
恥ずかしながらフォーラム21の存在を知らなかったのだが、日本を代表する大企業のトップの肝いりで優秀な企業の中堅幹部を企業横断の形で毎年40名前後集め、日本の将来を議論し、広く政財官にヒアリングを行い、さらに議論をし尽くして形のあるものにまとめる活動(将来を嘱望される人材の育成研修)、とのこと。

驚かされるのは、既に31年目とは言え、40名ものバックグラウンドや考え方の違う皆さんが一年を通して調査や議論を続け、最後に提言として一冊の本に纏め上げたことで、これ自体に強いコミットメントを感じる。また、世代的には段階ジュニアに当たる方々が中心のようで、私からするとおそらく一回り下の世代なのだろうが、現在の日本に対する危機意識を強く持たれていることに頼もしさを感じる。

構成としては、現状の整理。そして、29の提言を挙げている。
大きく分けると;
デジタライゼーション~データ×ルール×日本の強み~
企業・産業の新陳代謝~劣後を許す、すべての壁をぶち壊す~
イノベーション~人づくりと場の提供~
雇用改革~再チャレンジ可能な流動化社会を~
労働人口減少対策と社会保障対策

私の意を得たりと思う中項目をさらに挙げさせてもらうと、若手経営者の戦略的育成、大企業初ベンチャー、業法の改革、子供の頃からの経済教育、研究者に金を回す、他社出身者の管理職登用、定年制・解雇制度の見直し、外国人材の登用・活用、社会保険見直し、医療を海外へのビジネスに等々、さすがに40名で考えれただけあって現在の社会問題への解決案が網羅されている。

フォーラムでは中堅官僚などとも情報交換しているとのことで、このフォーラム参加者以外にも、いわゆる団塊ジュニア世代は、既に腹案を持ち、それを実行できるための権限を与えられるのをいまかいまかと待っているようにも思われる。
それに待ったを掛けるとすると、政治だろう。いま、若い人ほど選挙への投票率が低く、老人になるほどに高い。高齢化社会を迎えて、年金暮らし(あるいはその予備軍の私も含めて)になるとどうしても現状の維持、既得権の維持、自らの生活を守ろうとする意思が働き、長くても4年しかない衆議院議員らに無言の圧力が掛かる。
経済学で言う「合成の誤謬」である。ミクロ視点の自分の利益を図ると、マクロ視点の社会全体では意図しない結果が生じる。

重要なのは30年後、50年後、日本がどうなっているのか、政治家、企業家、世に影響を与えられる知識人が、間違いなく起こる現実を正直に語り、処方箋を示し、助け合う、努力しあう、そんな土壌を作ることだと思う。国民的な合意形成への努力は我々や若い世代の、50年後、100年後の日本人に対する大きな責務だろう。

処方箋はもうあるのではないか。そのカードを切るタイミングにあまり猶予はないと危機感を覚えると共に、その処方箋を理解しあう世代が育っていくことに期待を持たせてくれる一冊。

論理トレーニング 野矢茂樹著

 東大教授の野矢茂樹氏の論理トレーニングという本を読んでいる。
なかなか面白い。教養課程の大学生向けの本だそうだが、こういう授業をまじめに受けていると社会に出ても役立つだろう。30数年遅かった。
言葉というものは使い方によって恐ろしいほどのパワーを持つことがわかる。
その内容は別の機会に譲るとして、冒頭に氏が興味深いことを書いているので引用する。

 「思考は、けっきょくのところ最後はひらめき(飛躍)に行き着く。思考の本質は飛躍と自由にあり、そしてそれは論理の役目ではない。」

 「論理は、むしろひらめきによって得た結論を、まだその結論に達していない人々に向かって説明するための道具である。」


 またこうも続ける。
 「ここで重要なのは、その結論にたどり着いた実際の筋道ではない。」
「どういう前提から、どういう理由で、どのような結論が導けるのか。そしてそれ以外の結論はどうして導けそうにないのか。それらを論理的に再構築して説明する。」

 論理を少しずつ学びながらも、むしろ改めて認識するのは「飛躍」が大切ということだった。
左脳(閃き)と右脳(論理)をバランス良く動かしていかないと、「閃きを実現」していくことは難しいのだと。自分に置き換えると、もともとひらめき方だったのに、大きな会社に入社して、論理の重要さを叩き込まれ、ひらめきを押しつぶしていたように強く感じる。そうか、そういう事だったか。遠回りしても、それに気づくのに遅すぎることはないと思いたい。

この本は、すべての理系の学問の根本に物理学、あるいは数学があるように、論理学というものは理系・文系を問わずすべてに通じる根幹だということを教えてくれる。社会人としても、プレゼンテーション、ディベート、コンサルティング、事業計画、さまざまな分野において基本の「き」を教えてくれる、そんな良書である。
なお、一人で自己学習するうえでは、論理トレーニング101題という本も出されている。これもおすすめである。

日本人の勝算 David Atkinson著

金融業界出身のイギリス人が著者。長年日本に住み、将来の日本の経済状況を憂いて、
その処方箋を示した著作がこの「日本人の勝算」。現在日本が直面する人口減少を原因とした諸課題に対する政策提言を網羅している点で、論理的かつ公的データに立脚した議論がなされている。
日本経済をマクロ的に俯瞰して、将来への対策を考えるための良書だと思う。

事実
  • 日本の危機2060年までに人口は2016年比で32.1%減少する。(G7の平均はこの間で14.9%増加。日本の人口減少は世界史的に見ても突出している)
  • 人口減少は65歳未満の「労働人口」で大きく起こり、65歳以上の「非労働人口」は絶対数でも増える。特に85歳以上の伸び率はほぼ同い期間で2倍となる。
  • 若い世代は家を買う、子供の教育など支出が大きい。一方で高齢者は金融資産は若い世代より圧倒的に持っているものの、支出は少ない。お金を使わないのである。それは将来への不安への備えとも言える。
  • つまり人口減少➡︎支出の減少➡︎需要の減少となる。
  • 需要の減少に対して、企業は生き残りをかけてコストを下げて売る。給与を下げる、材料費を下げる、利益を減らす。これによって市場に流れる商品・サービスの価格は下がり、デフレにつながる。
  • 最近の傾向として老齢層の投票率は高く、若年層は低い。高齢者層はデフレを好む傾向があり、政党は選挙を意識して高齢者層の支持率を意識する。そのため政策もデフレを支える手法が取られやすい。
  • 結論としては、人口減少はデフレ圧力を強める。(IMF, OECDのデータで確認済み)
  • なお、デフレになると、ものが下がって良いではないかという議論があるだろう。しかし、労働人口にとっては給与が上がらず、場合によって職を失い、可処分所得が減っていく効果が指摘されるし、非労働人口にとっても、労働人口が主に払う社会保険料に支えられた年金・介護・医療など予算が足りなくなるので、やはり困る。スーパーで物が少し安く買えた喜び以上に、社会保障が使えなくなることがより辛いはずである。
議論
  • 2019年5月時点でまだ継続されている日銀+政府一体の金融緩和。つまり金利をマイナスにして、国債を日銀が買い占めて、その分、現金を大量に発行して市場に供給することで、貨幣の価値を下げてインフレ率の上昇を期待する政策である。市場への貨幣供給量を調整する政策をマネタリズム(サプライサイド経済学がバックボーン)と言う。
  • しかし日本の様に少子高齢化の進む国では機能しないという考え方が世界の経済学の潮流と言える。なぜなら折角供給した貨幣の行き先が無いからである。例えば都市部ですら空き家が増えている現象は、不動産供給(相変わらず高額)の割に、それを購入できる層が限られているためである。(無論古い規制の問題も追い討ちをかける)人生で最も大きい出費を伴う住宅において、需要>供給の現象が起きていて、即ち銀行ローンへの需要、お金への需要がない。実際にはお金は刷っていても使われない訳である。
    繰り返すと、人口が増えている状況において、マネーを多く供給する事でインフレ効果は上がるかもしれないが、日本のこの状況では効果が無いということになる。
  • 世界各国と比較しても、人口増加率(減少率)と経済成長率には相関関係が確認できる。(世界銀行のデータ)
  • 人口成長率と、一人当たり生産性の向上。どちらが経済成長に効くか。アメリカと欧州と比較するデータによると、一人当たり生産性の高い欧州よりも、人口成長率の高いアメリカの方がGDP増加率が高いことが分かる。やはり人口の増減はGDPに与える影響が大きいということである。
  • 人口が増えるのが一番良いのだが、日本の場合は出生率が急激に上がる事は考えにくく、しかも即効性がない。そうなると、一人当たり生産性を上げることを考えないといけない。つまり一人一人の所得、特に可処分所得を上げていく政策が重要。いまの一人当たりGDP(2015年) 720万円を、2060年には1,260万円に上げないとGDPを維持できない。
  • 何故GDPを維持する必要があるか。2015から2060までに減る労働人口は3,264万人。これは世界第5位の経済力を誇るイギリスの労働人口(3,211万人)がスッポリ日本から無くなるとのと同じ事を意味する。これは国力が疲弊し、経済が麻痺していくことに繋がる。故に生産性を上げ、少なくとも一人当たりGDPは維持する必要がある。
  • もう一つの大きな問題は65歳以上の非労働人口(高齢者)は減らないという事である。いまの生産性が変わらないままだと、2015年の64歳未満の収入に占める社会保障費負担率は36.8%だが、2060年には64.1%になる。当然こんな高い負担には耐え切れないので、その前に社会保障システムは破綻するだろう。
提案
  • 経済規模を追うのではなく、経済の中身(生産性)を上げることに集中するべし。
  • 一人当たりの所得を増やす。
  • 女性活躍、中高年活躍。
  • 「良いものを安く」モデルから「良いものを高く」モデルへの変換。
  • アメリカなどの人口増加傾向の国の政策をモデルにしない。
  • 企業を自由に活動させると、コストカット、配当増加のみに向かう。これに一定の歯止めを政府が行い、賃上げ、高くものを売るための創造性向上に方向性を変えさせる。
  • 小さい企業だと下請けから脱することが出来ず、生産性がどうしても上がらない。同業界であれば集約し、大企業化することで生産効率は上がる。
  • 内需であまる分は輸出に振り向ける。(日本の一人当たり輸出は意外に低い)
    例えば、2015年で5,360ドルの一人当たり輸出額は、韓国の1/2、ドイツの1/3、オランダの1/6。まだまだ輸出できるチャンスはあるのではないか。その際に中国を標的にするのは、先進技術を持った日本としておかしい。価格で勝負という考え方に染まっているから。
  • 輸出比率が高い国、あるいは高い企業は、生産性が高いことが実証されている。ただし、因果関係としては、輸出できるほどの生産性の高い国や企業が輸出に有利だと解釈されている。つまりなんでも良いから輸出ではなくて、順番としては生産性を如何にあげて
  • 最低賃金を上げよ。イギリスの例では最低賃金があがると、失業率は減り、一人当たりGDPが上がっている事実がある。それと抱き合わせで、経営者も含めた社会人への人材教育を強化するべき。
読後感想
 久々に刺激を受けた本だった。日本人の視点でないほうが日本を客観的に見れるということで、少々悔しいところもあり、同時に素直に正しいと思われることは受け入れるべきだろう。
 いくつか、自分のいままでの常識と違うところとしては、特に輸入についてだ。
日本は輸入をもっとするべき、かつ原材料、中間財を「先進国」から輸入するほうが生産効率を上げるとしている。これはOECDなど複数のレポートに拠るもので、精度の高いデータに基づいていると思われる。日本は韓国などに基幹部品などを輸出しており、それを誇っているようだが、逆に言えばそれは韓国やアジア周辺地域の生産性を上げることに繋がっているという見方ができる。

従来電子業界ではスマイルカーブという考え方、ものづくりは付加価値を取れず、材料・部品などの上流、あるいは販売・マーケティングなどの下流に付加価値が溜まるといわれてきた。この考え方は経験的にいって正しい。どの条件で、この理論が生き、OECDのレポートとの整合性が取れるのか、学問的に非常に面白いテーマになりそうだ。
 蛇足だが、個人的にはこの提言に加え、「QOLを重視した終末医療に対する個人の意思をより尊重する仕組み」を盛り込みたい。命に対する議論は倫理的に非常に丁寧に進めないといけないが、植物状態になった老人をただ機械で体のみを行かせ続けることについて、本当にそれが本人に取って望むことなのか、タブーにせずに議論が必要だと考える。