2010/12/30

ワークショップ入門  堀公俊



 前職の研修にファシリテーション研修が2日間に亘ってあり、大変面白い時間を過ごした。 ここで講師をしていたのが堀氏であった。 日本のファシリテーターの第一人者であるが、その時はそうと知らず面白い研修をする人というだけの印象だった。 直接いろんな話を聞けたろうに、残念なことをした。 

 Wikipediaによるとファシリテーションとは「会議、ミーティング等の場で、発言や参加を促したり、話の流れを整理したり、参加者の認識の一致を確認したりすることにより、合意形成相互理解をすすめ、組織や参加者の活性化、協働を促進させる手法・技術・行為」であり、ファシリテーターとはこのプロセスを進行させる人、ということになる。 このファシリテーション技法を用いながら、組織の課題を見つけ出し、さらにその進化形として、課題の解決方法を探し、実行プランを作れれば有用である。 なぜならば、ファシリテーションを通じて、すでに関係者内で合意形成されているから、さあ実行して解決しようというモチベーションが生じているからである。
研修の経験からすると、ファシリテーション技術を身につけるには研修を何度か受けるとかしないと難しい。 本を読んだだけで出来る人は数少ないのではないか。 研修を受けられないとすると、結局実際の経験をつむしかない。 では具体的にどうするかというと、まず何人かで議論してみる、というのが一番だろう。 ただその際に、議論のテーマや時間、目的を決めておく必要がある。 会社の現状について話をしよう、というだけでは最後は愚痴を言い合って終わるのが良くあるパターンである。

 そこでワークショップの基本的な手順を踏んで、議論をしてみようということになる。 ということで、ワークショップに関係した本を何冊か読んでみた。 堀さんの本は5冊ほど読んだが、やはり入門編としてはこの本がベストだろう。 残念ながら、これまた読みさえすれば、良いワークショップが出来るとは約束できないが、まずはどういうワークショップにするかのプランがしっかりしている必要があり、堀さんもこの本の中で、プロが一番時間と頭を使うのがこのプラン作りだと指摘している。 裏を返すと、しっかりプランしておけば、本番を向かえる前にすでに70%は成功していると言っていいかもしれない。 

 この入門書においてまず真似をするべきはプラン(プログラム表)の作成だろう。 参加者、時間、場所、議論のテーマ、手法などを定め、一定のルールの中で議論できるようにしておく。 あとは当日を迎えて、参加者を信じることだろう。 ほとんどの場合、我々の身の回りにある課題は、実は本人自身が解決方法を知っている。 その解決方法を気づいていないか、気づいていても表に出す機会が無い。 ワークショップは、それを助ける「場」という位置づけである。 

早川徳次 シャープを創った男




 すでに10年経ってしまっているが、日経新聞が二十世紀の経営者という連続特集をしていて、その中に早川徳次の回があった。 半ページにも満たない記事の中で早川の生涯を紹介しているのだが、その生き様には衝撃を受けた。 商売が上手かったとか、大変な発明をしたとか、努力の人とか、「偉人」を称える形容は数多くあるのだが、経営者においてその人徳で称えられる人はあまり多くないのではないか。 
早川を扱った本は多くあったようだが、伝記物は現時点では絶版になっていて、この本も実は古本屋から取り寄せて読んだ。

 1893年に日本橋に生を受けた早川は物心がつく前に養子に出される。 家業が傾いたのが養子に出された理由なのだが、本人は自分の出生を知らぬまま養子先の子供として育つ。 しかしその養子先がとにかく貧乏で、養父は酒飲みで働かず、養母も早川を虐め抜く。生活の糧は小学校にも上がっていない早川の、早朝から深夜に亘る内職だったようである。 それでも養母はこの可哀相な少年に辛く当たり、長屋にある共同便所の肥溜めの中に突き落として、大騒ぎになったことがあった。 学校にも行かせて貰えず、栄養失調になった早川を見るに見かねた長屋の人たちの計らいで、鍵屋職人の家に奉公に出され、ようやく普通に飯が食える状態になった。 とは言え、児童福祉法など無かった100年前の話である。 冬の寒い中、明け方から夜遅くまで働き、食事とて粥程度のものしか出なかったであろう早川少年のもとに、養母は僅かな給金を巻き上げにやってくる。 この間ずっと、早川はこのどうしようもない父と母を実の両親として信じて疑わず、稼ぎを渡すのが子の務めと思っていたようである。 

 彼の最初の発明は徳尾錠。 穴を開けなくていいベルトバックルである。 これは私もお世話になっている。 鍵屋が左前になってから、早川が職人として自ら考案し、親方の進めもあり特許を取った。 さらに有名なシャープペンシルを発明する。 これらが大当たりして大いに忙しくなってきた。 晴れて独立し、従業員を雇い、工場を立て、結婚して子も3人儲けた。 
 ところが幸せは長く続かず、1923年におきた関東大震災で、工場も家族も同時に失う。 さらに、たちの悪い大阪商人に足元を見られてシャープペンシルの特許をすべて売り渡すことになり、自分は一介の技術者に戻る。
 普通であれば、この時点で並みの人ならば自暴自棄となり、人生を踏み外すのではないだろうか。ところが早川の生き様はここからが凄い。

 その後、早川を慕う昔の部下と共に、大阪でシャープの前身となる早川電機を起こし、日本発の製品を次から次に発明し、現在のシャープを一代で作り上げた。 日本初の製品としては、ラジオ、テレビ、電子レンジ等々。 ビデオレコーダーのカセットをフロントから入れる仕組みや、右からも左からも冷蔵庫など、意外なものも山ほどある。 電子レンジが動いた後の、チンという音。これもシャープが最初。 そしていまのシャープを支える、液晶や太陽電池なども早川が生前から取り組ませていた技術である。 「人に真似されるようなものを作ろう。」という早川の指導の下に常に新しい技術に取り組んできた。

こういう成功物語とは別に早川の人徳を物語る逸話には事欠かない。 シャープペンシルを作っていた時代には、同じ詐欺師に2度だまされたが、真人間になれと説教してそのまま帰したとか、戦後の不景気に、社員を首にするなら会社を潰すと言って聞かなかったりとか、あれだけひどい目に合わされた養父母はもちろん、鍵屋の親方をはじめ、少しでも世話になった人には徹底的に面倒を見たようである。 さらに驚くべきことに「事業の目的とは社会への奉仕」であると言い切っている。 

 いまシャープは液晶と太陽電池で成長し、早川の時代から何倍も大きくなり、従業員も連結で5万人を超えるそうである。 その中で、この創業者の理想を守り続けることは容易ではなかろう。 時代も違い、会社や事業は株主を儲けさせるために存在する、という経済理念が大手を振るい、これに逆らうと市場という最大の資金調達先から手酷いしっぺ返しを食らう。 
こういう時代だからこそ早川の遺伝子を受け継ぐ人たちに、理想を追い求め続けてもらいたい、そう期待している。

<追記> 2012年10月現在、シャープはキャッシュフローが足らず、創業以来の危機に瀕している。 改めて早川の志を思い出し、社員一同必死で頑張り、再度の復活を遂げてもらいたい。