2010/01/10

経済学とポールサミュエルソン


 先日ケインズ学派の大御所であるポール・サミュエルソンが亡くなって、大学のゼミで教科書として使った「経済学」を持ち出した。 もう捨てたのだろうと思っていた赤い装丁の分厚い上下の本。 これを使ってゼミの合宿で3日徹夜で議論したことを思い出す。 いまざっとページをめくると、あれだけ散々勉強させられたからほとんど覚えていると思っていたのに、初めて見るような言葉がずらっと並んでいるのでがっかりする。 基礎中の基礎である需要と供給曲線はかろうじて覚えているものの、縦軸と横軸のどっちがどっちだかちょっと考えないと判らない。
 80年前後はサプライサイド学派が台頭し、もう一方の大学者であるミルトン・フリードマンの本もこっそり読んでいたものだ。 ケインズ学派が公共投資などの外科医的な経済政策を採るのに対して、サプライサイドはイギリスのサッチャー、アメリカのリーガンがとったように規制を撤廃した自由競争によって成長させる経済政策を採る。 その時点での経済環境や政治環境にあわせ、それぞれ役割を果たしてきた。 いまの日本に必要なのはどちらなのだろう。 
 いづれにしても、いまこの「経済学」で習ったこと、つまり私が判る程度の純粋理論だけでは説明できないことがいろいろ起きている。 国力が落ちているのに円が高いままとか、金利がここまで下がっているのに投資が増えないとか。 
 この本で学んだ「規模の経済」と、「構造の誤謬」ということばはよく覚えている。 規模の経済はつきつめて言うと、大きい方がより効率的に効果が出ること。 強いものが勝つとも言い換えられるだろう。 構造の誤謬というのは、自分にとっていいことでも、みんなが同じ事をすると、結果として自分を含めてみんなが困ること。 例えば、景気が悪いからお金を使わずに居て自己防衛する。 個人としてはそれで賢い選択だが、みんながそれをすると景気全体がさらに落ち込むこと。 金融危機のいまだからこそ、身にしみて実感する。 いずれまた景気が良くなってくると、これもまた人事のように思えてしまうのだろう。 というかそう思いたいね。

2010/01/04

言語世界地図 町田健 新潮新書


 世界の言語のうち46の言語を紹介している。 ひとつの言語を3-4ページで紹介しているので簡潔で分かりやすい。 世界言語小辞典抜粋位のつもりで本棚に一冊置いておくといいような本だ。 海外旅行を計画するときに、行こうとしている国の言語の分類、歴史、周辺国の言語との関係を頭に入れておくのはいいことだが、そんなときの整理にも使える本である。 ここでこの本に書かれている46言語の抜粋を書き残すのは意味がないので、いくつか思い出深い言語についてメモする。

 トルコ語。 仕事で東欧を担当していたときに、トルコ支社の人間がよくアゼルバイジャンと商売をしていた。 何となく使っている言葉がわかるというのだ。 この本でも、アゼルバイジャン、キルギス、ウズベクなど中央アジア一帯で話される言葉はチュルク諸語と呼ばれる同じ仲間であることが紹介されている。 いまトルコに住んでいる人たちは見た目から言うと、中央アジアというよりはイラン、アラブ、バルカンの人たちに近く思えるが、同じアジアの同胞である日本人への親近感は強かった。 

 中欧諸国のスラブ系言語。 同じく東欧担当をしていたときに、各国のお客さんを一か所に集めてミーティングしたことがあった。 クロアチア人、スロベニア人は全く問題なく話ができる。 この本にも書いてあったが、ほぼ同じ言語と言っていい。 彼らがチェコ人とも有る程度会話が成り立つことを発見して、自分達も驚いていた。 オーストリアとハンガリーに隔てられ、数百年間は直接の行き来がなかったはずである。 チェコとスロバキアも、これは方言で、全く問題なく会話ができる。 チェコとポーランドも、ある程度可能だそうだ。 ポーランド人に言わせるとチェコ語は、なんとなくふざけたような、軽い印象を受けるとのこと。 さらに言うと、ポーランドやロシア語は中央スラブの人々にはかなり堅苦しい印象になるそうである。 ところで、ここまで近い言語は方言と呼んだ方がいいのではないかとかねがね思っていたが、本書の中でも、「言語」の定義は実はかなり難しいそうだ。 政治的な意図で、自国語を他国言語の方言と認めない人も多いだろう。
 そういえば中国は省ごとに方言がある。 発音の音階が違うだけでなく、単語自体が違うことは珍しくない。 お互いに通じないということからすると、方言ではなく言語と呼んで差し支えないと著者も言っている。

 また東欧に戻る。 ルーマニアはローマ人の土地という意味だそうで、そうなるとイタリア語と通じるのではないかと思っていた。 たまたまイタリア人の部下を連れて出張する用事があったので、どんなものか調べてみたところ、イタリア人はルーマニア語は全く分からない、ルーマニア人はイタリア人の言葉を少し分かる、ということだった。 この本によれば、古いイタリア語(つまりラテン語)の要素をルーマニア語はかなり残しているとのことだった。 そう言えば、カナダのケベック州で使われるフランス語はある意味正統フランス語で、いまは使われない単語や言い回しが多いと書いてある。 ケベック州で作られたテレビドラマをフランスで放映するときは字幕が出ているそうである。 

 オランダ語が英語に良く似ていることにもビックリする。 本書ではオランダ語はドイツ語の方言の一つと書いてあった。 とすると英語はオランダ語の方言だろうか。 オランダのテレビにはろうあ者用に字幕が出ているが、それを読むと英語に非常に近いために私ですら何となく分かる。 アムステルダムに赴任していた仲間が、街で英語で話しかけられたと思ったら、それはオランダ語だったということがよくあったそうだ。 そうだろうなあ、と思う。 
 ということでオランダ人は皆英語が出来る。 日本でたばこ屋のおばさんが英語がペラペラだとかなりビックリするが、オランダでは本場のイギリス人なんぞより、たばこ屋のおばさんの方がよほど綺麗な英語を話す。 日本人は英語が世界で最も下手な民族だと思っているが、やはり日本語と英語の距離の問題が大きいだろう。 並列に比較されては酷というものだ。

 では日本語には仲間はいないのか? 朝鮮語とは文法的に非常に似ている、というよりほぼ同じと言っていいそうである。 ところが単語などは殆ど一致することばがないそうで、言語学的にはどちらかがどちらかの親とか兄弟という関係ではないそうである。 言葉は何処から来て、どういう変化をして今日に至っているのか。 興味が尽きない。

2010/01/02

比較言語学入門   岩波文庫 高津春繁


 比較言語学の入門書として評価が高い文庫本だが、本格的な研究を目指す人向けで私には少々難しかった。 書かれたのは1950年で、決して文語調ではないのだが、ひとつの文が5行位の長さで、その中に句が7つあるものもあり、かなりじっくり読まないと意味を見落とすほど、ち密に書かれている。 読む方にとっては大変だが、著者がかなりの学識をもって、一つ一つの句や文にたっぷりと情報を詰め込もうとしている姿勢が伝わる。
 言語に興味を持ち、その興味を学問の形で収めたい場合には、どこから始めるか、まず比較をしてみなさい、というのが導入部だ。 そして、比較方法の種類を、具体例を挙げながら解説していき、最後に言語を比較することによって得られるものは何かを説明している。
「言語の観察は人類の歴史の中においておそらくもっとも古いもののひとつに属している・・」という書き出しは、自分達が使っている言葉と違う言語で会話をする人たちに接したときの素直な驚きは古今東西、万人共通のものなのだと改めて思わされる。しばらくするとその驚きは、言語の違いはどこから来るのか、という興味に変わる。であれば、その言語を比較してみようということで、実際に数多くの比較事例が挙げられている。
 著者は印欧語が専門でイギリスへの留学経験もある。サンスクリット語は仏典に使われる言語という知識しかなかったが、現代のヒンディー語に大きな影響を及ぼした古インド語とでも呼ぶべき言語だが、いまは死語である。 18世紀末にイギリスのWilliam Jonesがヒンディー語がヨーロッパ言語と非常に近い関係にあることを発表したときは大きな衝撃だったようだ。 このサンスクリット語からペルシャ語、ギリシャ語、そしてラテン語やゲルマン系の諸語を比較すると面白い結果になる。 例えば、英語のfatherに相当する言葉は、pitar (サンスクリット)pitar (古ペルシャ)pater (ラテン)fadar (ゴート)。また英語のbe動詞のisや、ドイツ語のistに相当する言葉は、asti (サンスクリット)asti (アヴェスタ語・ペルシャのゾロアスター教の経典に用いられている言語)esti (リトアニア語)est (ラテン)ist(ゴート)である。 東はインド亜大陸から、西はブリテン島に亘って広がり、しかも2000年以上の時の隔たりがあるにも関わらず、ただならぬ近似性があるのは驚きである。ただ全く一緒というわけではない。例えばfatherに関しては、ゴート語だけがfで始まる。さらに詳しく調べると、fadar (古アイルランド語)faeder (古英語)fater (古高地ドイツ語)というようにゲルマン系の言葉はfで始まることが分かり、これはゲルマン諸語がそれ以外の言葉と近しいながらも何らかの相似性をもってまとまって発展してきたことを示唆する。 このようにこの本では、言語同士を比較をすることから、違いや同一性を発見して、さらに掘り下げていく手法を説明してある。 なお著者はギリシャ語に造詣が深く、この比較列挙でもギリシャ語が必ず例示されているのだが、字体がいわゆるローマ式アルファベットではないため、そもそも読み方が分からず発音がまったくイメージできないので記載しなかった。
 単語を比較すると、その単語はどの言語から発生したものか、さらには同じ語族にはその共通した基本言語があったのではないか、と興味が深まってくる。 著者は、その面白さを解説すると同時に、その難しさも説明していく。 例えば言語変化は、時間、地域、文化によってそのスピード自体が変わるので、何度も変化してきた単語が、古くからある単語とは言えないことなどを挙げている。 

 とはいえ、いろいろな言語を研究していくなかで、おぼろげながら、原型となる言語が見えてくる。 それがまた諸言語を体系づけることに大きな役割を果たす、そこに比較言語学の価値がある、と結論づけている。
 一読しての感想。学者というのは大したものだと思う。よくこれだけ調査し、真面目に文章を書けるということ。とにかく例示される言語の数が多い。いまも国名や地名として残っている言語だけでなく、アヴェスタ語、古代教会スラブ語などの宗教語、リュキア語やらヒッタイト語など文化と話手が消滅した言語など、枚挙にいとまが無い。研究の素材となる文書は遺跡や道端の記念碑、あるいは教会の奥深くから出てくるのだろうが、これらを発見し調査してきた研究者たちの努力と、18世紀から蓄積されてきた研究結果の層の厚さを感じる。

  それにしても、言語の歴史は人や文化の移り変わりの歴史そのものだと言うことが良く分かる。主に西欧で始まった言語学であるが、本来なら日本ではもっとアジアをテーマにした研究が発達してしかるべきだったと著者が語っているが、確かにもっと言語学的なアプローチの下でのアジア史観に関する本があると面白いだろう。 ことばという文化を背負ってどのように人々が移動していき、変わって行ったか、空想をかきたてられる。