2009/04/22

「嫌な予感」への対応力

 同僚と「嫌な予感」は現実になると言う話になった。 その予感が何に対してのものか明らかに分かっている場合は対処できる。 問題は思考の中を一瞬で駆け抜ける不安感だ。 その不安が何処から来るか考える間もなく去って行くから、それを思い出すのは大抵実際に問題が起きてからである。 経験的に何か大きなトラブルが起きる前には必ず伏線がある。 そしてその予兆として確実に悪い予感がある。 人間にはそういう「性能」が備わっていると言うことだろう。 ところが鈍感だとせっかくのアラームを気付かずに、あるいはうっすらと気づいていてもわざと無視してしまう。 現実を直視しない臆病者だからか、怠け者だからか、はたまた鈍感だからか。 「結構よく地雷を踏むよね。」ということになる。 何度しくじってもまた踏むのは学習能力がないからかな。 ただとにかく予感は有るのだ。 それをちゃんとセンスしないと・・・ということになった。

2009/04/21

金の卵を産むアヒルの話

 ある優秀なビジネスマンの話を聴く機会があった。 昔から嗅覚が鋭くいろいろなビジネスを生み出し、そのおかげで今でも売れているプロダクトがいくつもある。 その人が言うには「質を数字にできないものか」ということ。 短期的な経営数値はその場の経営判断には説得力がある。 だが「これは商売になる!」という確信は、それを聴く人のセンスによっては何の意味も持たない。 数値化すれば、少なくとも見かけは説得力を持つ。
 顧客と仲良くなる、小さい商売をする、シッカリこなして信頼を得る、そして大きな商売につなげていく。ビジネスは所詮ひとの営みだから数字に置き換えられるものではない。ただこういう三年から五年は係る長いプロセスの前半部分は売上で評価できない。売上どころか、時間と金ばかりかかって「何をくだらないことをやっているのだ。」ということになりかねない。実際、評価されないどころか、止めさせられることが多くなってきているそうだ。そこで前述の、質を数字に置き換える方法はないか?と言う話になる。

 知り合いの学者によると、やはりそんな手法はないらしく、まだブレスト中とのこと。面白い例として、パテントや意匠デザインの話が出た。発明やデザインが世に評価を受けるのは何年もたってからだが、その時点で収益が戻ってくる。これを応用できないか。
 もっともこれとて完璧ではない。結局は数字は使うものであって使われはいけない。数字を見るときはそれが原因なのか結果なのか、その意味するところの二面性、三面性を見極めるよう気を配るべき。知らず知らず金の卵を産むアヒルを殺してしまっているかも知れないから。2500年も前のギリシャ人もよく知っていたこの問題についての解を我々はまだ探り当てていない。

2009/04/06

水仙と桜

 京都府内に、古い農家を直して住んでいる英国人女性がいる。和洋折衷の洒落た骨董品のような家に住みながら、彼女は庭でハーブを作っている。ハーブティーを楽しむために。
・・・イギリス人にとって水仙の花は、長い冬の終わりを告げて、人びとに元気をくれる特別なもので、日本人にとっての桜と同じです、とその英国人女性は言う。
 ロンドンですらカラフトと同じ緯度の英国の冬は寒いだけでなく、暗くて長い。そこに水仙の黄色い花が真緑の植え込みにすくっと立ち上がるように咲く。緯度の高い地域独特の、朝日のような真横からの陽射しに映えて本当に美しい。確かにあの花を見ていると元気が出る。

 家内は、日本の桜には水仙と違ってもうひとつの意味があると言う。それは「別れ」。
 咲き誇る桜を見るときは、日本に生まれて良かったと思う瞬間だ。ただ家内が言うように仲間と別れる季節でもある。現にここ最近で二回送別会に出ている。まだあと三回やらねばならぬ。 桜の本当に綺麗なのは僅か一週間。はかなさを感じのはそのせいもあるのだろうか。日本のわびさびの感覚に通じるのが桜。英語では表現しにくく、evanescenceという単語が一番しっくりくると有名な通訳者が言った。

2009/04/05

統計でウソをつく法 ダレル・ハフ著 講談社


 これは統計を志す人だけでなく、広汎な一般の人が全て読んだらいいという本。 数字そのものは間違っていなくても、それをどう解釈し、利用するかによって大変な間違いも犯すという警鐘であるとともに、そんな大失敗をいかに防ぐかが書かれている。 原書名はHow to Lie with Statistics, by Darrell Huff。 翻訳は高木秀玄氏。
もとは家内の大学時代、統計学の授業で、すでに総理大臣まで勤めた元教授が薦めた本。 それを読ませてもらったのはもう18年程前だと思う。 あまりに面白く、一晩で読んでしまったと記憶しているが、今回改めて手にとって訳者のあとがきを眺めると、やはり同じ体験をして翻訳を思い立った様子が書かれてある。

【サンプリングの偏り】
例として「エール大学卒業生の年収はなんとxxx万ドル!」と言う統計があった場合、まずその統計のとり方を調べる必要がある。 そもそも卒業生でいまでも連絡を取れる人たちは一部でしかなく、食いっぱぐれて連絡が取れなくなった人たちはこのサンプルに入っていない。 かつ普通の人は給与を聞かれたら多少は誇張して答えるはず。 そう考えると、xxx万ドルという金額は非常に疑わしくなる。

【平均】
平均値と中間値は違う。 平均値は算術的な単純平均。 中間値は、例えば5人を成績順に並べたときの上から3番目、下から3番目のこと。 ある企業の給与平均が月収40万円だとする。 実態としては3人の役員が100万円、残りの平社員7人が10万円しかもらっていないということもあり得る。 でも中間値を取ると10万円ちょっとということになり、むしろそちらのほうが実態を示す数値としては近いかも知れない。 

【小さすぎるサンプル】
この商品には75%の人が満足している、という広告があるとする。 いったい何人に聞いたのか調べてみるべきだろう。 広告の隅に小さく書かれた説明によると、実は実験を行ったデータでしかなく、しかも参加したのはほんの数名だったりする。

【グラフの表現】
例を一目瞭然だが、縦軸、横軸の単位のとり方や省略、あるいは太さなどを工夫することで、見たときの印象が大きく違ってくる。

【原因と結果の誤謬】
ハーバード大学を対象に喫煙する学生の成績を調査して、タバコをすう学生は成績が悪いという統計が発表されたとする。 だが、タバコをすうのは、成績が悪くなったからかも知れないし、そもそもタバコを吸い始めたタイミングからの成績の動きも判らない。


【統計に騙されないための5か条】
★誰がそう言っているのか?
そのデータはどう言った機関、人が出したのか、何を主張するために使われたのかが重要。 政治的、あるいは商業的な団体であれば、普通は自分に都合の悪いデータは出さないだろう。

★どういう方法で判ったのか?
誰に対して調査をし、それがどういう人で、そのうち何パーセントが回答して、そもそもどういう質問の仕方をしたのか。 調査の方法を知ることによって、調査する前から結果がほとんど予測できてしまうこともある。

★足りないデータは何か?
これは隠されているデータをさす。 平均値と中央値のどちらを出しているのか示されていなかったり、ひどい場合は調査データの出所を示していないなどは最たるものだ。

★問題をすりかえていないか?
統計で脳病患者が増えている、と言われていても、本当に増えているのかどうか、単にそれ以前は調査されていなかっただけということもある。 ある国の人口調査で当初は飛んでもなく少ない人口だったのだが、生活保護など福祉を充実するための国勢調査をすると人口が一気に10倍に膨れ上がったこともある。 

★意味があるのか?
選挙予測の統計などは、その時点で調査された人がそう答えただけであって、未来を言い当てるものではない。 科学的に証明されていないことを、もっともらしく統計で出されると、それが事実と誤認することも多い。


【読後感】
※統計は現状分析に非常に重要な学問であり、ツールだと思う。 それと同時に測定の方法は非常に難しいということを、この本を通して改めて知った。 考えてみれば当然で、一般に統計は人が作り出したシステムを測定するために使われるが、そもそも人を測定するための尺度は無限に存在する。 つまりそんなに簡単に数字に置き換えられるものではなく、測定不可能なものの方が世の中には多い。 

※人間というのは弱いもので、数字で表してもらうとホッとして、つい気を許してしまう。 回答が出た気になって考えるのを止めてしまう。 そこが怖い、ということだろう。  脱線するが、ビジネスの世界にいると、なおさらである。 明日儲かるか、明後日儲かるかが判らないときにグラフだけ見て安心したくなるときがある。 

※筆者が使った言葉で上手くまとめてある一節を記す。
「統計というものは、その基礎は数学的なものであるが、科学であると同時に多分に技術でもあるというのが、本当のところである。 ある範囲内でなら、非常に多くのごまかし、あるいは歪曲化でさえ可能なのである。 しばしば統計学者は、さまざまな方法の中から事実を表すための方法を主観に訴えて見出さなければならない。」