2021/01/10

これからの「正義」の話をしよう “Justice” 著者:マイケル・サンデル、早川書房

  NHKなどで2010年代前半に盛んに放送した「ハーバード白熱教室」の哲学授業を観た人も多いだろう。彼の授業は至高ファシリテーションと言え、研修や授業をする上でのベストモデルだと考える。

なれない哲学の本、かなり平易に書いているのだと思うが、この分野の素人の私は大いに手こずった。専門家から見るとかなり危ない試みだろうが、その主張の要旨を書いてみたい。


 

 テーマは本の題名通り、「正義とは何か」。何を以って正しいのか、という正解がない普遍的なテーマを扱っている。

まず有名な、一人を殺せば、五人が助かる・・・これは善か悪か、という究極の選択から議論が始まる。そしれ歴史的に様々な哲学者の理論によってどう回答が導き出され、それに対してどういう欠陥があるかを論じている。

大きくまとめると、サンデルが取り上げているのは3つの考え方だ。

1.     功利主義 (Utilitarian) 

幸福・快楽を数値化することで、全体最適を正とする。この考え方に沿うと五人を救うために一人の犠牲を伴うことは明確に許容されることになる。

2.     リバタリアン (Libertarian)
選択の自由を尊重する考え方であり、他者の権利を侵さない限りにおいて、個人の自由を重視する考え方。アメリカだと政治が個人の自由に制約をかけるべきではないという共和党の主張に近い考え方。

3.     公共善主義 (Communitarian)
サンデル自身はこの考え方をとる。正義というものは美徳を涵養することと、共通善について判断することが含まれるという考え方。


Utilitarian(功利主義)は正義と権利を、原理によってではなく、計算による評価に単純化することに大きな欠陥を抱えている。つまり一つの価値基準しか採用しておらず、質について考慮していない。五人の命と一人の命、なぜ五人の命が尊いのか、数の議論しか出来ていない。


リバタリアンの考え方は、功利主義的な数値化された基準による判断を否定することで、一つの解決に辿り着いている。しかし、個々の自由に偏りすぎ、どの自由まで許されるのかに踏み込めないでいる。つまり「正義」には個々の判断が関わってくることが避けられず、名誉・美徳・誇り・認識の概念から切り離すことができない。


公共善、Communitarianの考え方は、違いを認めるところから始まっている。効用の最大化や個人の選択の自由を否定はしない。ただし、公正な社会の実現には避けられない、価値観や考え方の不一致を受け入れる公共の文化を作り出さないとならないと説いている。

具体的な政治的言説を挙げると、物質の欠乏を満たすことと、精神的・道徳的欠乏を満たすことは同じではない、という主張だ。大事なことは道徳(公共の正義)に対する認識の違いによる議論から背を向けてはいけない、最終的に一致することはないであろう複数の考え方を尊重し、その議論の中から社会としての進み方が包括的に決まっていくという立場である。


深く考えていくと、その一行一行に意味があり、300ページを超える邦訳を読みこなすのはかなりしんどい。ただここから見えてくるのは、現在曲がり角に差し掛かっている民主主義をどう修正するかという試みである。この文章を書いている20211月、米国では大統領選後の混乱が収まらない。貧富の格差(1%の人口が米国の50%の資産を支配する)は人種問題、教育問題、様々な課題に影を落とす。人々が解決案の無い課題を抱えている中に、これを利用して扇動する政治家も現われ、より社会の混沌を深める。

こういう時に改めて何が正しいのかを考えてみる、議論してみる、それが大切だと改めて思う。