2011/08/16

ドイツ史10講 坂井栄八郎  (岩波新書)


東大名誉教授の坂井氏が厚さ1センチの新書に2000年に及ぶドイツ通史を書いたものだが、さすがに薄すぎた感がある。 教科書をギュッと圧縮したような印象があって、読む側もそこから本質的なところを読み取るののは難しい。 かと言って10センチのみっちりとした本を読めとなると、途中で挫折するであろうから、初心者は文句を言ってはいけない。

ドイツが長い間、小国に分かれていて、統一国家になったのはほんの150年前のプロシアがドイツ帝国になったときである。 それまでなぜ統一できなかったのかはずっと疑問だった。 また教科書に突然現れる神聖ローマ帝国とは何ぞやとずっと思っていた。 歴史辞典を開いてもその疑問に答えてくれていない。 この本を読んでも、まだ漠然としているのであるが、読み終わった後の理解を書いてみる。 

  • ドイツが小国に分かれていた理由
    • もともとゲルマン諸族は地域と部族に分かれていたため、小さくまとまるのが自然であった。
    • 山間部の多いゲルマンの地理的な理由。
    • 逆にフランス、スペイン、イギリスが比較的早くから統一国家を作り出せたのは、ローマ帝国による比較的大きな土地を管理するための行政組織が残され、かつ整備されたローマ街道によって物資と情報の流れ維持され、これらが中央集権維持のために幸いした。 
      これは世界史的には寧ろ特殊といえる。
    • カトリック教会組織が各地に修道院を設置し、王侯の行政と一体化していたが、同時にこれが小国割拠を促進した。
    • プロテスタント(新教)とカトリックの争いの中で、最終的に二つの宗教をそれぞれの小国が好きに決めていいことになった。 それにより、小国それぞれで宗教が入り乱れることになり、より一層統一を困難にした。
    • 神聖ローマ皇帝はドイツを見ていたというよりは、ヨーロッパを視野に入れており、ドイツ統一にあまり関心がなかった。 皇帝の中にはドイツに行ったことが無いとか、ドイツ語がしゃべれないという人もいた。
    • そもそもドイツ国家という意識が無かった。 ゆえに、ドイツは一つの国家でなければならぬ、という考え方は、近代になって英・仏・西・露などの強豪国家に対抗するために出てきたナショナリズムに由縁する。
  • 神聖ローマ帝国とは
    • これは歴史家でも答えに窮するようである。 
    • 発端はゲルマン民族国家であったフランク帝国を、イタリアのローマ周辺の所領を割譲し、寄進してくれた見返りとして、ローマ教皇が貴国は「ローマ帝国」であるとしたから、神聖なるローマ帝国となった。
    • その後ドイツ諸国でその時々に神聖ローマ皇帝をローマ教皇から認めてもらっていたが、実権があったとは言いがたいケースが散見できる。 
    • つまり神聖ローマ帝国とは国家とは言えず、緩やかな諸国連合と呼んだほうが実態に合う。 皇帝はその象徴ではあっても、治めることはなかった。
    • 皇帝は、自身の直轄領以外の諸国に横槍をいれることはなく、寧ろ入れることが出来なかった。 ハプスブルグ家の一時期、あまりに皇帝の所領が増え、実力が増すと、他の諸国は皇帝の力を削ぐための行動をとった。
    • 当然中央集権でもなく、帝国の首都がどこかもその時々による。 
    • 法律も諸国によってさまざまで、厳格に統一されたものではない。
    • いまのEUに非常に似ている印象を受けた。 もちろん行政、立法にわたる意思決定システムや各国家の権利義務においてその比ではないが、連邦としての捕らえ方が近い。 EUというのはドイツ国民からすると、受け入れやすい考え方だったように想像する。


ところで、オーストリアはやはりドイツの一つなのであろうか。 長年の領土の出入り、世界帝国ハプスブルグ朝のおかげで他民族国家であるオーストリア。 とはいえ、ドイツ系民族がマジョリティであり、当然ドイツ語を話し、共通のシンパシーを持つ。 次回への疑問にとっておく。